女性の時間外・休日労働・深夜業に関する規制は平成11年4月より原則として廃止されましたが、女性に関しては、ほかに以下のような規制があります。引用 労働相談Q&A 山形県商工労働部雇用対策課
いまだ鉄道は男の職場という意識は根強いが、戦中や戦後間もない頃の鉄道は女性が支えてきた事実も忘れてはならない。戦時中、男たちは兵士として戦地に送られた。他方、女性は軍需工場や郵便配達、電車の運転などを任された。特に、市民の足として欠かせない交通機関だった路面電車では多くの女性が活躍した。
当時の職員は50万人近くいたわけで、輸送量からすれば過剰な人員であり、国鉄は毎年慢性的な赤字に苦しみ、国会でも何度もやり玉に挙げられていたからです。
さて、本来の女性職員が鉄道業界、特に国鉄に芽生えなかったのかという点について改めてお話をしたいと思うのですが、先程申し上げたように、国鉄では私鉄のような関連企業が認められておらず、そうした関連企業への吸収という方策は望み得なかったこと、さらにもっと大きな要因として、動力車乗務員と貨物輸送があったと言えそうです。
今は、蒸気機関車は観光の目玉的に捉えられていますが、当時は電化区間も少なく、殆どは蒸気機関車で運転されていました。
煤煙は酷く、トンネル区間では窓を閉めてもどこかららともなく煤煙が入り込み、白のシャツが煤で黒くなると言うのは日常茶飯事と言えました。
そして、その蒸気機関車の運転を支える機関士と機関助士の仕事は非常に重労働、特に機関助士の仕事は石炭をボイラーに投下する、力仕事です。
女性の力では流石に、片手シャベルで、石炭を連続して投炭するのは難しいでしょう。
ということで、機関士を含む運転士の仕事はどうしても女性ではなく男性中心の仕事になってしまいます。
また、駅員の場合は女性を中心にして国鉄時代は配置すれば良かったのではないかと言う意見も出てくるかと思います。
ただ、そうなると、中高年のヤードで働く職員をどうするかでした。
今では、廃止されてしまいましたが、かつて、「ヤード」と呼ばれる広大な貨物仕分け線がありました。
ハンプと呼ばれる小高い丘から自動的に開放して予め設定された線路に向けて貨物を送り込む方法で、貨車に飛び乗りブレーキを掛けて行く仕事をする構内係(昔は連結手と言っていた、以下構内係で統一)という職種がありました。
雨の日も夜間も関係なく行われる仕事で、当然のことながら、貨車に接触する、「蝕車事故」と呼ばれる事故も後を絶たず国鉄殉職者の6割を占めると言われていました。
当然、構内係の仕事はこのように危険が伴いますので、出来るだけ年配者は外していきたい。そうなると外した人たちの働き場所を確保する必要が出てくる訳です。
その先が、駅員と言うことになってきます。
もっとも、接客に向いている人もいれば、元々そうした接客が苦手な人もいたりするわけで、そうした人が窓口で利用者とトラブルになるなんてこともあったわけです。
ですから、少なくとも当時の国鉄にあっては、駅員に若い女性職員を採用して改札や、出札【切符販売窓口】の職員として配置してしまうと、男性駅員は連日夜勤のみの対応となったりしてそれこそ非常に不都合な状態になってしまうし、その上構内係の、卒業先が塞がってしまうと言うことを意味するのでした。
もちろん、30代になっても、構内係の仕事をしていた人も皆無とは言えませんし、雇員(いわゆる非正規雇用)による、連結手もいましたが、社員の場合はそうしたセカンドキャリアを用意する必要もあったのです。
案外そうした視点が抜けたまま書いている記述が多いので、少しだけ解説というか、異論を挟ませていただきました。
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大阪環状線は、城東線・西成線・関西線のうち今宮~大正を経て西九条までの鉄道空白地帯を埋める形で建設されたものです。
大阪環状線が開通した当初は、西九条駅は高架駅と地上駅が混在する駅でした。
高架工事が完成したのは昭和39年3月22日、8時55分の西九条発外回り(西九条から弁天町・大正経由天王寺方面行き)から運転を開始したと言います。
交通技術39年6月から引用、切明工事が終わったのち暫くの間は、大阪市電西野田線は、玉川で元環状線の線路を走行したと記述されています。(大阪市電は1435mmですので改軌したのでしょうね)
環状線の路線を大阪市電が走ると言うのも中々貴重な画像ではないでしょうか。
ただ、いまとなっては場所が中々特定しにくいのですが、どの辺かわかる方おられましたら是非ご教示願います。
野田駅で撮影した方ならご存知であろうが、貨物線の横にアスファルト舗装された部分があるのに気付かれた方も多いでしょう。
かって、大阪中央市場まで線路が伸びていた跡なのです。
昭和6年に開通し、昭和60年に廃線になった路線です。
当時の大阪市場駅の写真を集めたページがありましたのでリンクを貼らせていただきました。
Railway Maniaxさんのサイトでごらにただけます。
上記ページの鐵路回顧録に大阪市場駅の写真がございます。
そして、本日の最後のお話は、淀川電車区と言う電車区がその昔あったと言うお話。
片町線四条畷 ~片町間で電車列車が運転開始になった際に、設置された電車区で貨物駅出会た淀川駅の隣に設けらた電車区で、大阪地区では最も古い電車区でした。片町線および、城東線・西成線(現在の大阪環状線の一部と桜島線)の車両基地として使われていましたが、1960(昭和35)年淀川電車区森ノ宮派出所として誕生、その後森ノ宮電車区に昇格してからはもっぱら片町線の電車区となりましたが、国鉄末期の1985(昭和60)年3月14日に閉鎖されてしまい、大阪一古い電車区はその姿を閉じることになりました。
現在は、淀川電車区があった跡地は
少しだけ、103系というか大阪環状線の歴史を振り返ってみたいと思います。
現在、大阪環状線と呼ばれている路線は、元々天王寺から寺田町経由で大阪都結んでいた城東線、関西線、関西線の支線(大阪臨港線)西成線(現在の桜島線)の間に2.5kmの高架区間を設けて線路を繋いだもので、昭和31年3月に着工され昭和36(1961)年4月には、仮開業(当時、西成線が地平であったため、西九条駅で西九条発天王寺経由大阪方面行きと、西九条発大阪経由天王寺方面行きになっていました。
完全高架になって環状運転ができるようになるのは、更に3年後の昭和39(1964)年3月22日まで待たなくてはなりませんでした。
なお、当初所要168両に対して
実は、大阪環状線誕生と同時に103系が投入されたようなイメージを持たれがちですが、103系の誕生は昭和38年に試作車が誕生し、その翌年から量産車が投入ですので、環状線開通には間に合っていません。
昭和36年(1961)4月25日の大阪環状線開通式(天王寺鉄道管理局30年史)
また、開業当初の写真では一部73形も走っていたようです。
ただ、順次101系が投入されたようで、出発式には101系を投入している写真が天鉄局のアルバムに出てきます。
画像 wikipedia
103系は山手線に次いで配置されていきました。
塗装は東京の中央線と同じオレンジバーミリオンとなり、片町線に転属した101系もそのまま同じ色とされました。
余談ですが、片町線のローカル電車、阪和線の旧国鉄形車両もオレンジバーミリオンが採用されました。
さすがに、阪和線の103系は環状線のと共通運用が当時はなかったので、京浜東北線と同じスカイブルーとなったのは承知の通りです。
大阪環状線画のの字運転を開始して1年後の昭和37年、弁天町に交通科学館が国鉄90周年事業として建設されることとなりました。
目玉になったのは、昭和35年7月で用途廃止となったマイテ49、鷹取工場で復元されたC5345であり、マシ29その他の客車とともに、大阪港貨物線経由で搬入され浪速貨物駅から仮線を引いて搬入、そこで缶の火をそのまま落としたという話を聞いたことが有るのですが、側聞しただけなのでその辺の裏付けは取りたいと思っています。
大阪環状線は、開通当初は天王寺→大正→弁天町→西九条だったわけです。
ただし、当初から新今宮駅及び芦原橋の計画は有ったようです。
出典交通技術 昭和31年3月号 P93
ちなみに、芦原橋駅の開業は、昭和41年、新今宮駅は当初から南海電鉄との接続駅として計画されていましたが、昭和39(1964)年3月22日に開業、南海電鉄の開業は2年後の昭和41年(1966)12月1日とずれがあります。
なお、開通当初は関西線と線路を共用していましたが、昭和43年には複々線として分離されて現在の中央2線を関西線が利用する形となりました。
続く・・・長くなりそうなのでわけさせていただきます。
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運転台下の緑の塗分け線が異なることに気付かれたかと思います。
下の写真が113系で、緑帯は斜めになっています。
それに対して115系は貫通ドアに一杯まで緑の塗装が行われています。
湘南色とそもそも呼ばれるようになったきっかけは、昭和25年3月1日から運転が開始されたミモハ80形を含む中距離電車(旧形国電は本来系列と言う概念がないが、理解しやすくするため以降は制御者を含めた80系と言う呼び方をします。) 東海道線東京~沼津間,湘南形電車運転開始 3/1
国鉄があった時代 昭和25年前半 80系電車が、オレンジと緑色の塗分けで誕生したからでした。 この色を湘南地区のミカンとその葉っぱの色としたと言われていましたが、後年、星晃氏の著書などでこれは全く後から付けた理由であって当時は取りあえず明るい色にしたいということで決まったのが緑とオレンジだったそうで、当初はもう少しオレンジも赤みがかっていたそうです。
その後現在の湘南色と呼ばれる色に落ち着いたと言われています。
試運転中に火災事故を起こし、「遭難電車」と言うありがたくないニックネームを付けられたものの、その後の利用は順調で、昭和25年後半からは2枚窓のタイプが製造されさらに、その人気は他の私鉄も真似するほどでした。
写真はクハ86-300番台全金属車
このスタイルは、当時は大変人気だったらしく阪神や西鉄、名鉄などでもこの亜流と呼べるスタイルが多数誕生しました。
写真は、南海電車の11001系です。
スキャンの仕方が悪くて埃が取れていません。(T_T)
ここでは、簡単に185系電車の誕生までの経緯などを書いていこうと思います。
画像 Wikipedia
JR東日本が、旧国鉄時代に製造した車両185系を、東京と静岡県の伊豆半島を結ぶ特急「踊り子」から数年以内に退役させる方針を固めたことが8日、分かった。老朽化したため。185系の退役でJR東が定期運用する特急列車から国鉄時代に造った車両が消え、1日に30周年を迎えたJRの発足後に登場した車両に統一される。
踊り子は伊豆半島にある人気観光地の伊豆急下田、修善寺までそれぞれ走っており、車両の置きかえで旅行者の利用促進を狙う。後継車両には、中央線の主に新宿(東京)-松本(長野県)間を走る特急「あずさ」や新宿-甲府間などの「かいじ」に使っているE257系を転用。(共同)
ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20170408/k00/00e/020/316000c#csidxe9bc88e68463166aebcc013e91b6c73Copyright 毎日新聞