更新頻度は低いですが、鉄道関係のニュースについて独自の視点で書かせていただきます。
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少しだけ、103系というか大阪環状線の歴史を振り返ってみたいと思います。
現在、大阪環状線と呼ばれている路線は、元々天王寺から寺田町経由で大阪都結んでいた城東線、関西線、関西線の支線(大阪臨港線)西成線(現在の桜島線)の間に2.5kmの高架区間を設けて線路を繋いだもので、昭和31年3月に着工され昭和36(1961)年4月には、仮開業(当時、西成線が地平であったため、西九条駅で西九条発天王寺経由大阪方面行きと、西九条発大阪経由天王寺方面行きになっていました。
完全高架になって環状運転ができるようになるのは、更に3年後の昭和39(1964)年3月22日まで待たなくてはなりませんでした。
なお、当初所要168両に対して
実は、大阪環状線誕生と同時に103系が投入されたようなイメージを持たれがちですが、103系の誕生は昭和38年に試作車が誕生し、その翌年から量産車が投入ですので、環状線開通には間に合っていません。
昭和36年(1961)4月25日の大阪環状線開通式(天王寺鉄道管理局30年史)
また、開業当初の写真では一部73形も走っていたようです。
ただ、順次101系が投入されたようで、出発式には101系を投入している写真が天鉄局のアルバムに出てきます。
画像 wikipedia
103系は山手線に次いで配置されていきました。
塗装は東京の中央線と同じオレンジバーミリオンとなり、片町線に転属した101系もそのまま同じ色とされました。
余談ですが、片町線のローカル電車、阪和線の旧国鉄形車両もオレンジバーミリオンが採用されました。
さすがに、阪和線の103系は環状線のと共通運用が当時はなかったので、京浜東北線と同じスカイブルーとなったのは承知の通りです。
大阪環状線画のの字運転を開始して1年後の昭和37年、弁天町に交通科学館が国鉄90周年事業として建設されることとなりました。
目玉になったのは、昭和35年7月で用途廃止となったマイテ49、鷹取工場で復元されたC5345であり、マシ29その他の客車とともに、大阪港貨物線経由で搬入され浪速貨物駅から仮線を引いて搬入、そこで缶の火をそのまま落としたという話を聞いたことが有るのですが、側聞しただけなのでその辺の裏付けは取りたいと思っています。
大阪環状線は、開通当初は天王寺→大正→弁天町→西九条だったわけです。
ただし、当初から新今宮駅及び芦原橋の計画は有ったようです。
出典交通技術 昭和31年3月号 P93
ちなみに、芦原橋駅の開業は、昭和41年、新今宮駅は当初から南海電鉄との接続駅として計画されていましたが、昭和39(1964)年3月22日に開業、南海電鉄の開業は2年後の昭和41年(1966)12月1日とずれがあります。
なお、開通当初は関西線と線路を共用していましたが、昭和43年には複々線として分離されて現在の中央2線を関西線が利用する形となりました。
続く・・・長くなりそうなのでわけさせていただきます。
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